東北地方太平洋沖地震・東京都町田市では…

 いろいろな被害が続いている、東北地方太平洋沖地震です。
 被災地の一刻も早い復旧を願うとともに、この混乱が早く収束することを切に望みます。

 この地震のことを忘れないために、メモ程度でも記録しておこうと思います。

 3月11日(金曜日)午後2時45分ごろ、東北地方太平洋沖地震が発生しました。
 私は世田谷にある、S生協本部の事務所にいました。
 最初は、「あっ、地震ですね。揺れてますね。」程度でしたが、だんだん揺れが酷くなり、これは普通の地震ではない!と、わかるほどになったのは、数分後だったと思います。

 固定電話も、携帯電話も普通状態が続きます。
 携帯電話(au)で自宅に連絡が着いたのは、午後5時45分頃でした。

一階の本棚が倒れたそうです


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二階の私の部屋の惨状


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 二階の部屋も、衣装ケースが倒れたり、積んであった本やプラモ・フィギュアなどが崩れましたが、家族に怪我がなかったので一安心。
で も、自宅(町田市木曽西)は停電しています。結局午後11時くらいまで、停電が続いたようです。
 ウサギ奥さんと息子さんは、町田市広袴町のお義父さんの様子を見に行ったあと、相模原市の妹様の家(停電していない)に避難していたそうです。

 さて、私は、事務所で配送センターからの情報収集している部課長を見ながら、動きそうもない交通情報を集めました。
 が、JR東日本は終日運休。小田急線その他私鉄は、ぜんぜん動きそうもありません。

 もう事務所に泊まるか、町田まで延々歩くか…と考えていた所、上司からお呼び出し。
 町田方面の女性陣他を、生協車両(プリウス)で送ってほしいとの依頼です。

 大渋滞しているだろうな…と思いつつ、登戸のMさん、町田のSさん、Iさん、多摩市のIさん(男性)と一緒に、午後6時に世田谷区・経堂を出発。

 まずは登戸に向かうため、世田谷通りへ。もうそこから大渋滞。
 世田谷通りに入ったとたんぴたっと止まって、ぜんぜん動かなくなりました。

 1メートル進んでは、10分停車…の繰り返し。
 車道に溢れる自動車の横を、バイクと自転車がすり抜けます。
 交差点に無理やり入って、道をふさいだ自動車をよけようとして、バイク同士が接触事故を起こしました。が、警察を呼んでも来ないという判断なんでしょう。さっ、と示談して分かれていました。怪我が無くて良かったです。

 渋滞に巻き込まれ、動かない状態が2時間、3時間と続きます。
 1キロも動いていない感じです。
 歩道には、徒歩で帰宅する人の群れが、延々と続きます。
 不思議な光景です。
 途中でコンビニによった二人からは、パンやオニギリはすべて売り切れで、ほとんどのものが品切れ状態だった…と、報告が入ります。

 町田のSさんは、世田谷区に住んでいらっしゃる理事のお宅に泊めてもらえることになり、自動車を降りて徒歩で理事のお宅に向かいました。

 多摩市のIさん(男性)は、動かないので諦めるから…と、自動車を降りました。(結局深夜まで経堂駅で待っていて、動いた小田急線で帰ったそうです)

 Mさんのだんなさん(練馬のD君)からTELがありました。現状と所在地を話したら、抜け道があるとのこと。
 D君の電話による見事なナビゲートで、細い道をくねくね走りながら、深夜1時ごろに登戸に到着。
 無事、Mさんを送り終えました。

 この先は私のホームグランドなので、すいすい進んで、町田のSさんの家に、深夜2時前に到着。
 無事、Sさんも送り終えました。

 そこから自宅までは近いので、深夜2時ちょっとすぎに無事帰宅。
家族と無事を喜び合って、倒れるものが少ないリビングで、「川の字」になって就寝しました。

 「帰宅困難者」という言葉。
 いままでは災害シュミレーションでしか聞かない、架空の言葉でした。
 それが痛みを伴って、一気に実感として認識できてしまった、一日でした。